インターネットに真実はない

 私たちは他人の意見を聞いて、それはありえないと思うことがある。例えば、反自民党の人からしてみれば、自民党支持者は異端な存在になる。逆に、自民党支持者からすれば、自民党を支持することが大事なのである。従って、真実は自己が形成し決定するものであって、他者によって形作られていくものではないということである。

他人の意見を聞いて、自分の意見が変わることがある。それは、自分が意見を変えたこのである。例えば、殴られそうになったから、避けるのか、当たっていくのか、それは相手が決めることではない。危ない、と感じたから避けるかもしれない。なので、何かに対して心が動いた瞬間、人は動くのである。

心が決断した瞬間、それは事実になる。例えば、ドキュメンタリーを見て、それが事実だと確信したとする。それが事実だと確信することによって初めてそれが事実になる。従って、一度自己の中で事実という結論を出すことによって事実が形成されるのである。

自分の中で一度結論を出すのだから、それをインターネット(体外)に求めることはできない。例えば、ある商品を買いたいと思っていたとする。その商品を買うための情報を探ろうとする。しかしながら、その買うか買わないかの答えは自分の中に目的がなければ見つけることができない。具体的な手順としては、これを買いますという結論を一回出す。そこでもう答えは終わっているのである。インターネットにその商品を買う理由を求めても、それは他者の真実を閲覧しているだけであって、自己の真実を見つめてはいないのである。だから、何で何かをするのかという質問は人に聞く質問としては妥当ではない。自分に聞かないと答えは見いだせないのである。

人に理由を求めるのも無意味である。例えば、何でこれをする必要があるんですかと人に聞いたり、文句を言ったりしても、それには意味がない。なぜならば、何かをする意味は最初からないからである。言い換えれば、自分の中にはその意味がないのである。他人にとっての真実を自分に当てはめることは不可能なのである。つまり、ある人の命令やお願いは自分にとって全く持って理解できるものではないのである。

自分にとって意味のないことであっても、それを無視することはできない。じゃあどうするのかといえば、それを受け入れることしかできない。なぜならば、それぞれの人間にとっての真実は紛れもなくその人にとっての真実であるからである。だから、他人との口論は無駄に終わり、お互いにとっての正しさを知る必然性に駆られる。他人の意見を初めて知って、それから妥協点を見つけて、一緒に物事を解決していくしかない。

結論として、インターネットを含めた、自分の体以外のものに関してはそれらしきものしか見つけることができない。自分にとって正しいものは自分の中にしかないから、それをじっくりと見ることが大切である。例えば、好きな食べ物を思い浮かべて、何で好きなんだろうな、というのを吟味する必要がある。その答えは他人から探しても見つかるはずがない。なぜならば、その好きな理由は自分にしかないからである。

疲れているとき、そう、疲れているとき。そういったときは文章を書きたくなる。

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