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『あと1センチの恋』レビュー

 『あと1センチの恋』(原題 Love Rosie )は幼馴染2人が何かしらの理由によって恋愛から遠ざかれていく物語の映画。この恋愛物語は女性ーあるいは主人公ーの視点で描かれていく。そのため、女性向けの恋愛映画であることが伺える。この映画で展開されていく、男女の恋愛ーあるいは関係ーはとにかくドロドロしている。よくありがちな展開としては男女のいずれかが空きあらば浮気をして男女の関係が崩れていく。そのような世間や環境に置かれている二人はまるで世間に踊らされながら生きていく。その結果、二人は騙し騙され続けてお互いが結びつく機会を失っていくのである。  自分に一番合っているものを探し求めることがこの映画の筋。例えば自分が好きなものは何?もっと具体的に言えば私にいちばん合っている人は誰?そんな疑問の答えを提示してくれそうな映画になっている。しかしながら、映画ではいくつもの答えを出してはそれを否定することを繰り返す。この映画は答えが私達の中にあって外にはないことを示しているのかもしれない。つまり、この映画を見たって、何も恋愛の参考にはならないということである。ロージーという仮定の運命の人をこの映画は作っているけれども、それが一番だとは決して言いきってはいない。  ロマンチックな映画なのだから原題を忠実に訳してもよかったはずである。原題の方がわかりやすくていいタイトルである。あと1センチの恋って何という疑問が湧いてくるかもしれない。原題の Love Rosie は、直訳すると愛するロージーへというタイトルになる。直球だ。でも実際に愛する○○なんて表現を使うことは一般的ではない。ちょっと書簡的な表現だ。さらに、ロマンチックすぎる。それにもかかわらず、『あと1センチの恋』よりはもっと安易なタイトルでもよかったはずである。  

『イノセンス』レビュー

 『イノセンス』という映画は前作(『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』)に引き続き非常に芸術的な作品である。前作よりも10年近く経てから制作された今作は前作以上に非現実的な側面が多い。それは、まるでゲームのような世界観である。事細かな描写まで丁寧に描くというこだわりは強く感じられる。その芸術の方向性は全体よりも客体に注目した映画本来の姿ではない。事細かに描く小説的なつくりになっている。今作はバトーという人物の主観を見せるような物語になっている。  『イノセンス』のバトーはまるでこの世のすべてを受け入れているような人物である。彼の感情が高ぶる機会は少ない。たとえ自分の頭がハッキング(乗っ取り)されたとしても動じない。まるで自己の存在を否定、あるいはあっても無くてもいいような生き方をしている。特徴が少ない面白くないキャラクターである。しかしながら、バトーという存在は最も映画の中でリアリティ(現実性)にあふれている。言い換えれば、いかにも現実にいそうな登場人物なのである。  対照的に少佐という人物は空想上の人物である。頭の中をハッキングされることが容易であるがゆえに、今見ている場面(シーン)のどこまでがリアルなのかは決して判断することはできない。例えば、脳を乗っ取られたらバトー自身は自分を打ってしまう。トグサは永久的にループされた記憶から抜け出すことができない。それはバトーが人形たちと戦闘するシーンでさえも同じである。バトー自身が少佐という人物を作り上げて、その空想とともに戦っているのかもしれない。彼自身も少佐のことをー存在しているのかどうかわからないー守護神と呼んでいる。この映画はあえて、夢見る主人公の夢日記のような作品のように作り上げられている。つまり、どこまでがフィクションであるのかをあえてわかりづらくしているのである。  正直こんなに厭世的、あるいはディストピア的な作品であるとは思っていなかった。世間受けを全く考慮していないような作品作りである。とにかくこの作品は暗い。作品としてはポストモダン的であると言える。バトーという1個人の歴史に焦点を当てた、歴史上にいるかどうかわからない登場人物の物語である。暗い作品の割にはとんでもない窮地にバトーを陥ることもしない。今作はポストモダン作品としては優秀なのであるが、面白みに欠ける。